対世界衒学的

衒学 (げんがく)

  1. 学を衒(てら)うこと。ある事項事象に関して知識があることを、必要以上に見せびらかすこと又はその物言い。特に内容のない事項について、さも重要であるかのように見せ、さらに発言者自身が重要性を有するように見せる技法の一つ。一般には「」と結合し、形容動詞として用いられる。

 

 どこまで知れば「知った」ということになるのだろうか。どこまで勉強すれば「勉強した」ということになるのだろうか。

 この世の全てが知りたかった。いつしか知らねばならぬとさえ考えるようになった。

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 フェミニズムについて考えるようになったのは、過去に付き合っていた方の影響だった。自立心が強く、ものをよく考える人で、フェミニストだった。私はその人の主張を聞いて「これは私も勉強せねばなるまい」と感じた。

 男尊女卑とはいうものの、いつから男尊女卑が発生したのだろう?男尊女卑が家父長制に基づいているとしたら、いつから家父長制が発生したのだろう?その考えは現代にも適用されるべきなのか、そうではないのか。家父長制の起源がもし太古の時代、狩猟採集の時代から続いていて、それがオスの方が体が大きく強かったかことが原因としたら、男尊女卑は自然状態ということになるのだろうか?もし男性の方が一般にIQが高く、ヒトにホモ・エコノミクスとしての役割が求められる資本主義社会において高いポジションを占めるのが男性なの当然だ、というマチョイズムが出てきたら、それはどう考える(反論される)べきなのだろう?そもそも、ジェンダー論の中にセックス(生物学的性差)を持ち込むべきだろうか?睾丸を摘出した男性と子宮を摘出した女性のジェンダーが男と女のままなのだとしたら、ジェンダーをセックスが定義するということは不可能であるから、ジェンダー論の中にセックスを持ち込むのは不適切だろうか?だとすると、オスであってもジェンダーとして女が割当てられるという事象が発生するのだろうか?とは言え、女性特有の生理現象やライフイベントを「両性の社会生活の公平さ」の実現のために無視することはできないのではないか...

 ...フェミニズムについて学ばねばならないと考え始めてすぐ、以上のようなことに回答できない限りは、自身の意見を表明し、立場を取るに値しないと思った。発言権がないように感じるのだ。一方で、現実世界ではいつでも問題が発生しまくっていて、厳密な議論なんて誰も興味がないように感じる。インターネット上の論争のなんと不毛なことかと思う反面、必要以上に物事について自己満足的に納得させることにも大して意味はない。ただ、知りたいと感じたし論じられるようになりたかった。

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 こういうの、「衒学的」と揶揄されるのだろう。あるいはオタクっぽいと言うのかもしれないし根暗というかもしれない。単純に「キモイ」でもいい。もはや、いつからなのか、なぜなのか分からないが私のあらゆる事象に対しての態度は衒学的になってしまった。必要以上に細かく知ろうとしてしまうし、そうでなければならないと感じている。

 どこかで、終わりにしなければならない。

 もう大学生ではないのだ、社会に出た大人なんだ。いつまでも細かいことに拘ってないで、勉強するにしてももっと実利に基づいたことを勉強したり、自分のこれからに向き合っていくべきなのではないか。資格の勉強とか、もっと実学に時間を割いた方がいいのではないか?

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 狭い家の一角に本が積んである。まだ読んでいない本と、すでに読んだが読み直すべきだろうと整理された本たちである。そしていくつかの購入予定の本のリストがある。追加で読むべきだろうと判断したものと、私を形作った本で、今、手元にない読み直したい本たちのリストである。

 こいつらを片付けたら、一度、本を買うのをやめにしようと思う。この世界の全てなど知りっこないのだ。広げた風呂敷は畳まれなければならない。一度、今までの俺の風呂敷を畳んで、区切りを付けようと思う。

 そうして次は、何をすればいいのだろう。

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 「ジェンダー論の中にセックスを持ち込むべきなのか?」という疑問が湧いたとき、とある本を見つけたので読んでいました。そうすると、どうも「女」とは何かという定義から明らかにしないといけないということらしく、少なくともボーヴォワールの『第二の性』という本を読まねばならないことが分かりました。一冊本を読んで、2冊、3冊と追加で読まなければならないとしたら、一生かけても読書が終わらないことになってしまいます。別にそれは構わないのですが、そんなことをして時間を過ごして、この世界に対して懐疑的に詳しくなっていった先に自分は何を得ているのだろうかと考えたとき、少し寂しくなったのです。おそらく、何も得られないでしょう。

 もう少し、この世界そのものを素直に受け入れて単純に生きてたいな、とか、自身と世界の関りを増やすための時間の使いかたをしたいな、とか、結婚したいな、とかそんな感じです。

 

 以前、友人と話していた時に「いやぁ、働きだしたとはいえ、大学の時と気持の面で何ら変わりないのよね。社会人になったらものの考え方とかガラッと変わるんかと思ってたわ」と話をしていて、「ああ、自分の気持ちに変化がないのは自分がいつまでも同じステージに踏みとどまっているからなんだろうな」と気づかされました。その一つがこの読書です。この手の時間を持て余す大学生のような勉強を辞めてしまうのが自分にとって良いことなのか分かりませんが、少しでも前進できるといいなと、思っています。必要だと感じるようになれば、また再開すればいいのです。