名前を与える

 存在が先だったのだろうか。名前が与えられたのが先だったのだろうか。

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 高校生の頃、明らかにADHDの友人がいた。高校生だ、そんな精神疾患のこと誰も気にしていないし、その頃は周りもそいつ自身もそんなことは考えてもいなかった。

当時はSNSの黎明期だった。まだインフルエンサーという単語もそこまで普及しておらず、SNSもただの大喜利大会会場かアングラ野郎の巣窟だった(今もアングラ野郎の巣窟ではあるが、少なくとも今みたいに誰でもSNSのアカウントを持っているという時代ではなかった。)わけだが、何のきっかけかそいつもSNSに手を出し始めた。

SNSというのは面白い場所で、探せば自分と似た境遇の人間や考えもつかないような金持ち、クズ、嘘つきが溢れかえっていて、そいつも自身と似た境遇の人間、つまり社会にうまく溶け込めない「不適合者」が自分だけではないと知ることになる。つまるところ、部屋を片付けられない、分かっていても期限を守れない、他人の言動を上手く理解できない、暗黙の了解を承知できない人間がこの世にたくさん存在することを知り、それがADHDという精神疾患であることを知る。

これは憶測だが、そいつはADHDを知り、それについて調べたのだろう。そしてあまりに自身の状態に当てはまることに気づき、自身もADHDだと気づいたのだと思う。そして、そいつのADHDはドンドンと進行する。

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 自分はADHDだと知ったそいつは医者に行って薬をもらい、治療を開始したのはいいものの、はたから見ると症状は悪化の一途をたどっているようだった。思うに、自身をADHDという枠組みにあてはめたことで、その傾向が強化されたのではないかと思う。

医師に正しく診断され、治療をするのはいいことだとは思うものの、それで症状が悪化するようでは意味がないのではないかと第三者ながら感じていた。

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 今、私も医師からうつ病だと診断され、その傾向が強化されているような感じがしている。抗うつ剤をもらい、治療を開始したが、もしかすると診断など受けなかった方が良かったのかもしれない。「うつ病」という名前が与えられたことで私自身がそれを意識するようになり、その症状に則った行動をするようになってしまっているのかもしれない。無気力、無感動、マイナス思考、その他諸々。正しく診断され、それを治療するのは大切なことだが、マイナスイメージな名前を与えられるのはともすると危険なのではないかと、そう思う。

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 唯物論唯識論とかいう哲学の分野がある。詳しくないしわざわざ今から勉強しようとも思わないが、モノが先に存在するのか観念が先に存在するのかというのは哲学的に議論されうる対象であるらしい。

 雪の降らない地域に「雪」を指す単語が存在しないのを見るに、私は名前より先にモノが存在しているべきなのではないかと考えているが、一度存在が確認され、名前が与えられたものというのは、その名前の意味する通りに存在することを縛られるものであると思う。

 血液型診断が分かりやすい。A型が神経質でB型がマイペース、O型はおおらかでAB型は天才肌なんていう馬鹿げた分類をするのは日本人だけらしいが、その分類が存在し、名前(カタチ)が与えられ、それが社会的に認められると、A型の人間は無意識に神経質な性向を身に着けてしまうのではないかと思うのだ。

精神疾患もこれと似ている。ADHDと気づかなければただ時間にルーズで期限を守れないやつだが、そうと名前が与えられればその瞬間に発達障害の社会不適合者の性向が強まり、うつ病と診断されれば無気力で沈み込んだ性向が強まる。

 長らくうつ病の傾向が見られた私自身であったが、果たして医師にそう診断されお薬をもらったのが正しい判断だったのかどうか、やたらと抑うつ的な気分が高まっている今の自分を観察するに評価に困る。投薬でこの傾向がましになるのであれば「正しかった!」と胸を張って言えるが、そうでなければいつまでもそうと知らないままの方が真っ当でいられたのではないかという気もする。

 いずれにせよ、しばらくは様子を見る必要があるだろう。