待ち構えている

 とある映画評論家の話である。端的かつ鋭い批評は彼を高名な映画評論家たらしめるのに十分であった。そんな彼は今日もパリのさびれた映画館で一日を過ごす。我々の目には大々的に宣伝された映画しか目に入らないだけで、世界には私的に制作されたものも含め実に大量の映画が存在しており、彼はそうしたゴミの山も含めて上映される映画のほぼすべてに目を通しているのだ。

 あるとき、彼にこんな質問が投げかけられた。「駄作だと分かっている映画をどうして鑑賞するのか。時間の無駄ではないか。」彼の答えは「私は待ち構えている」というものだったという。

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 先日、大学時代の先輩と食事に行ってきた。近況を話し合い、仕事のことを話し合う、よくある食事の風景である。悲しい独身社会人のよくある会話の一つとして仕事辞める論争がある。「競争社会の中でいつまでも上を目指して努力する」という営みに早くも疲れてしまった若者がやりがちな会話で、この会話をけしかけて盛り上がる相手というのは大抵現状に"かなり"不満を抱えている。

 悲しい私たちは、当たり前のように仕事を辞めるか否かについて語り始めた。

金融インフラで働いていた私は仕事を辞めるつもりだと話した。こんなことのためにストレスをためて一生を過ごしていくのはごめんだった。資産運用会社で働く先輩はまだ続けるつもりだがいずれは辞めるだろうと話した。彼はもっと人を喜ばせることがしたいと語った。誰でも知っている、この世に不要な仕事なんてものはほとんどない。働いているだけで素晴らしい。でも、もっと直接人を喜ばせたり幸せにするようなことをしたいのだと先輩は言う。それは私にも素晴らしい考えに思えた。だが、そのために何をすればいいのか分からないと彼は言う。私にも分からなかった。ただ、少なくともお金をあっちへこっちへ動かすというのでは人を幸せになどできないのではないかと私は言った。先輩は「その通りだ。その通りなんだけど今はこうすることで世界を観察している。俺は人を喜ばせる"何か"が明らかになるのを待ち構えている。それが明らかになれば動く。」

 映画評論家と同じことを言っている。さすが先輩だと思った。

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 もっと単純な性格に生まれたかったという話はどこかでしただろうか。つまり、人生の意味とか生きるという行為についてとか、資本主義や消費社会の在り方についてとか、そういうせせっこましいことについて考えない性格に生まれたかった。だがそうなってしまった以上は、それを心の一部として引きずって生きていかなければならない。

 一体、自分はどういう状態を達成したら満足なのだろうか。どうあればこれがベストだと言い切ることができるのだろうか。どこに行けばいいのだろう、どこにも行かなくてもいいのかな、それに俺は満足するのかな。

 

 天啓は空から降ってきやしない。私は無信教だから。でもそれがいつ見つかったとしてもいいように、待ち構えていなければならない。ぜい肉を落とし、神経を研ぎ澄ませ、その時を待ち構える。それは、最高の状態で迎え入れられなければならないから。