人生の一番長い年

 ジャネーの法則というものがある。端的に言うと、時間の流れは加齢とともに早くなる、つまり一年の長さは年を取るごとに短く感じるようになるという考え方である。本当だろうか?諸説あるが、少なくとも私はこの考え方は嘘だと思う。27歳で迎えた2023年は、私にとって一番長く感じた一年だったから。

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 2023年1月、私はとある外資系のコンサルタント会社に就職した。いろいろと悩んだ結果、コンサルタントとしての能力を身に着けた後に独立して起業し、個人のコンサルタントとして生計を立てたいと考えた結果の行動だった。

 Big4と呼ばれる大手の外資コンサルタントへの就職は不安でいっぱいだった。求められる水準の高さ、激務を原因とする精神疾患による離職率の高さ、アップオアアウトの厳しい職務環境。どれもうわさに聞いただけであり事実無根ではあったが、それまで生ぬるい環境でしか働いたことのない私をビビらせるだけの情報がネット上には溢れており、鵜呑みにはしないまでもそのような環境に身を投じるのだというプレッシャーを勝手に抱え込んでいた。

 振り返ってみれば、それらの噂は部分的には正しく、部分的には正しくない。確かに求められるものの水準は高いし精神疾患で職を離れる人間も一定数いる。だが、大きな目で見ればクライアントから高いコンサル料を取る対価に品質の高い資料を作ることで少々高めの給与を得る、ただの仕事だ。恐れを前提に構えるほどのものでもないし、大きなプレッシャーを感じなければいけない仕事というわけではない。

 しかし、私はその肩書を恐れ多大なプレッシャーを感じながら日々の業務にあたっていた。この程度の品質の資料で外資コンサルを名乗って良いものか、この程度の仕事量で高いコンサル料を取っていいのか、その資質が自分にあるのか、そもそも向いていないのではないか。提出する資料にはいつも自信がなく、日々無力感と出来ない自分へのもどかしさを感じ、これが正解なのか、この程度のものでいいのかという自問自答は常に続いた。

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 得てして、コンサルとして働き始めて半年、2023年6月に私はうつ病になった。スーツを着てリュックを背負い靴まで履いた足が止まる。靴を脱いで何となくソファーに座り込んでいるうちにどうやっても出社には間に合わない時間になっていた。意思とは関係ないところで出社を拒否した自分を見つけて、精神科に行って診断書をもらうことを決意した。どうしてそんなことを考えていたのか思い出せないが、その時は「診断書さえあれば仕事を休めるはずだ」ということしか考えられなかった。先々の仕事のことは考えないようにした。誰かが私の空けた穴を埋めなければならない為に苦労をすることになると分かっていたが、ただ休みたいとしかその時は考えられなかった。

 兆候はあった。夜は明日が来ることが憂鬱で眠れず、夜中には何度も目を覚まし、朝は今日という日を受け入れられなくて起き上がってこられない。原因のよく分からない頭痛や吐き気がして上手く頭が回らない。明らかな兆候だったが自身がうつ病になるということを受け入れられずにいた中で、最後は身体が私に態度を示した。最早受け入れざるを得ない。

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 一か月間仕事を休んだ。休みの間、ゲームに没頭して気が付いたら夕方になっていたり、一日中寝ていたり、言いようもない不安や希死念慮に駆られて訳も分からず涙を流したこともあった。浴びるほど酒を飲んで、なんとか元気に振舞うことで周りを安心させようとすることもあったが、飲酒の翌日は大抵病状が悪化した。こんなことをしていても、病気は治らない。医者に言われた通り規則正しい生活を取り戻し、飲酒は控え、日中は身体を動かしたり読書や勉強に時間を充てるように生活態度を改めた。いくつかうつ病克服に関するエッセイを読み、病理としてのうつ病を学び、その仕組みを理解して克服しようと努めた。

 そうして7月、うつ病を発症した際に私を庇い、有給や傷病休暇の取得なしに私を会社に在籍させてくれた(特例も特例である)上司の元で再び働き始めた。簡単な仕事から始め、休みがちながらも徐々に仕事量を増やし、気が付けば元の仕事量と同じかそれ以上の仕事をこなせるまでに回復していた。上司や先輩の多大なるサポートがあったこと、私自身にコンサルとしての能力がついてきてアウトプットが上手くなったこと、仕事に慣れてきたこと、仕事に対して妙なプレッシャーを感じることなく泰然として業務に当たれるようになったこと、常駐形態からリモート勤務主体の働き方に変わったこと等、色々な要因があってどうにか復帰したのである。

 二度とあんな精神状態に戻りたいとは思わないが、うつ病になったこと自体は悪いことばかりではなかったと感じている。休んでいた期間は自身を見つめなおす良い機会を与えてくれたし、どうなると自分が精神的に追い詰められるのかについて知ることもできたし、仕事へ取り組む姿勢をどうすべきかについての知見も得られたと思う。それに、27歳の独身という状態でうつ病になれたことはむしろ幸運だ。家庭を持ち、妻子を養う立場にあってうつ病になっていたらもっと大変だっただろう。

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 とかなんとか言いつつも、私は友人の勤める会社に紹介を通して転職活動を行い、恙なく次の就職先を見つけた。間違いなく私の働いていた会社は社会的意義という観点から見ても、個人への成長の機会の提供という観点から見ても、そこで働く人々の素晴らしさという観点から見ても、本当にいい会社だった。

 ただ、今ではないと感じた。この会社で十分にやっていくにはもっと成長してからではないといけない。社内で成長していくというやり方も勿論あるだろうが、情けない話、そうするだけの、そのようにしてコンサルタントとしての仕事を続けるだけの自信がなかった。だから一度離れることにした。

 当初のように独立して起業するということも今は考えていない。おそらくそれをするだけの能力は私にはないし、扱える案件の大きさを考えた場合コンサルをするにしても企業に勤めていた方がいい。

 そして、目下の集中すべき事項は次の仕事を一生懸命やって成果を出すことだ。独立とかなんとかというのは結果であって目標とすべきことではない。結果として私にそれだけの能力が身について、その時もしそうしたいと思ったのであれば、その方向に舵を切ればそれでいい。

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 うつ病になった時、本当に自殺を考えた。一方で、なぜうつ病になると希死念慮が湧くのか、希死念慮とはどういう心の動きの結果生まれるものなのか気になったのでいくつかの文献にあたった。曰く、希死念慮や自殺願望とは現状の苦痛からの脱出手段として心が生み出す自衛手段らしい。

 不思議なことだが今はそういった希死念慮のようなものを全く感じない。どうやら耐えがたい「現状の苦痛」からは一旦抜け出したようである。うつ病の原因は会社にあるわけだから、一時はコンサル会社に入ったことを後悔していたが、今はこの会社に入って様々経験を積めたこと、優秀かつ仕事に対する姿勢を尊敬できて、なおかつ最後まで私を気遣ってくれた素晴らしい上司と先輩の元で働けて本当に良かったと思っている。おそらくこれは一生の糧になるだろう。

 

 最後に、なぜ加齢とともに時間の流れを早く感じるようになるかについて私の考察を述べて本文を締めようと思う。思うに、加齢とともに様々なことを経験し、「新しい体験や刺激」を受ける機会が減少することが時間の流れを早く感じるようになる原因なのではないだろうか。経験のある事に対しては脳は過去の記憶や経験を頼りに事態に対処するが、経験のないことに対しては新たに対処法を考えそれを実行に移す新鮮な刺激、対峙したことのないストレスが課される。このストレスの多寡が時間の流れを長く感じさせるか短く感じさせるかに影響するのではないだろうか。即ち、ストレス(刺激)が多ければ時間を長く感じ、少なければ短く感じる。

 うんざりするような一年だった気もするが、生きてきた中で一番長い一年だったと言えば悪くないような気もする。2024年からはまた新しい仕事に就く。もしかしたら、また長い一年になるかもしれないし、今年ほど長くは感じないかもしれない。

 うんざりするような一年だった気もするが、今は「来年はもっと頑張りたい」と思っている。前を向いて追われる一年だったなら、悪くない一年だったような気もする。

正常は唯一認められる異常

 かつて、正常なのは世界の方か自身の方かと考えていた。異常なのは世界の方か自身の方かと考えていた。

朝になるとすし詰めの電車に乗って会社に向かい、上の方針に従ってよく分からない資料を作成する。俯瞰的なビジネスマンはそれを「よく分からない資料」なんて単語で片付けたりしない。自身とその所属部署を組織の中の一部門に位置付け、その中で何故その資料を作成しなければならないのか、その資料が作成されることによって組織にとってどのような意味があるのかを理解し、自身の行為を胸を張って正当化する。更に俯瞰的になれる人間は自身の所属する組織が社会にとってどのような意味を持つのかを理解する。そうして、俯瞰的に、俯瞰的に、視座を高く、視座を高くしていくことで、世界の中の社会の中の組織の中の部署の中の課の中の個人として果たしている役目を理解し、毎日の仕事を果たす。

 

嘘ばかり。そんな人間見たことない。みんな嫌々働いている。組織のこととか社会のことなんて誰も気にしてなくて言われた通りに仕事をして火の粉が降りかからないことを祈ったり、降りかかる火の粉を他所に付け替えたりしている。

 

 そのバカバカしい営みに誰も疑問を覚えないのだろうか。疑問を覚えながらも受け入れて頑張っているのだろうか。その営みを当たり前のように受け入れられない俺は落伍者で社会不適合者なのだろうか。正常なのはそれを受け入れる人間たちのことなのだろうか。異常なのはそれを受け入れられない俺の方なのだろうか。俺はいつまでも現実を直視できないアダルトチルドレンなのだろうか。世界を懐疑的に見つめて、正しさとは何か、あるべき姿とは何かを追求することを忘れてただ風に吹かれるチリの一つになるのがあるべき大人の姿なのだろうか。

 

 正常なのは世界の方か自身の方かと考えていた。異常なのは世界の方か自身の方かと考えていた。

名前を与える

 存在が先だったのだろうか。名前が与えられたのが先だったのだろうか。

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 高校生の頃、明らかにADHDの友人がいた。高校生だ、そんな精神疾患のこと誰も気にしていないし、その頃は周りもそいつ自身もそんなことは考えてもいなかった。

当時はSNSの黎明期だった。まだインフルエンサーという単語もそこまで普及しておらず、SNSもただの大喜利大会会場かアングラ野郎の巣窟だった(今もアングラ野郎の巣窟ではあるが、少なくとも今みたいに誰でもSNSのアカウントを持っているという時代ではなかった。)わけだが、何のきっかけかそいつもSNSに手を出し始めた。

SNSというのは面白い場所で、探せば自分と似た境遇の人間や考えもつかないような金持ち、クズ、嘘つきが溢れかえっていて、そいつも自身と似た境遇の人間、つまり社会にうまく溶け込めない「不適合者」が自分だけではないと知ることになる。つまるところ、部屋を片付けられない、分かっていても期限を守れない、他人の言動を上手く理解できない、暗黙の了解を承知できない人間がこの世にたくさん存在することを知り、それがADHDという精神疾患であることを知る。

これは憶測だが、そいつはADHDを知り、それについて調べたのだろう。そしてあまりに自身の状態に当てはまることに気づき、自身もADHDだと気づいたのだと思う。そして、そいつのADHDはドンドンと進行する。

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 自分はADHDだと知ったそいつは医者に行って薬をもらい、治療を開始したのはいいものの、はたから見ると症状は悪化の一途をたどっているようだった。思うに、自身をADHDという枠組みにあてはめたことで、その傾向が強化されたのではないかと思う。

医師に正しく診断され、治療をするのはいいことだとは思うものの、それで症状が悪化するようでは意味がないのではないかと第三者ながら感じていた。

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 今、私も医師からうつ病だと診断され、その傾向が強化されているような感じがしている。抗うつ剤をもらい、治療を開始したが、もしかすると診断など受けなかった方が良かったのかもしれない。「うつ病」という名前が与えられたことで私自身がそれを意識するようになり、その症状に則った行動をするようになってしまっているのかもしれない。無気力、無感動、マイナス思考、その他諸々。正しく診断され、それを治療するのは大切なことだが、マイナスイメージな名前を与えられるのはともすると危険なのではないかと、そう思う。

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 唯物論唯識論とかいう哲学の分野がある。詳しくないしわざわざ今から勉強しようとも思わないが、モノが先に存在するのか観念が先に存在するのかというのは哲学的に議論されうる対象であるらしい。

 雪の降らない地域に「雪」を指す単語が存在しないのを見るに、私は名前より先にモノが存在しているべきなのではないかと考えているが、一度存在が確認され、名前が与えられたものというのは、その名前の意味する通りに存在することを縛られるものであると思う。

 血液型診断が分かりやすい。A型が神経質でB型がマイペース、O型はおおらかでAB型は天才肌なんていう馬鹿げた分類をするのは日本人だけらしいが、その分類が存在し、名前(カタチ)が与えられ、それが社会的に認められると、A型の人間は無意識に神経質な性向を身に着けてしまうのではないかと思うのだ。

精神疾患もこれと似ている。ADHDと気づかなければただ時間にルーズで期限を守れないやつだが、そうと名前が与えられればその瞬間に発達障害の社会不適合者の性向が強まり、うつ病と診断されれば無気力で沈み込んだ性向が強まる。

 長らくうつ病の傾向が見られた私自身であったが、果たして医師にそう診断されお薬をもらったのが正しい判断だったのかどうか、やたらと抑うつ的な気分が高まっている今の自分を観察するに評価に困る。投薬でこの傾向がましになるのであれば「正しかった!」と胸を張って言えるが、そうでなければいつまでもそうと知らないままの方が真っ当でいられたのではないかという気もする。

 いずれにせよ、しばらくは様子を見る必要があるだろう。

この小さな錠剤に

 いつか、どこかのタイミングで行かねばならないと感じ続けていた心療内科メンタルクリニックに遂に行ってきた。結果は中等度のうつ病とのことだった。お医者様曰く「この手の分野は科学ではあるものの、ある種で文学的な要素が含まれる。あなたの場合、症状に希死念慮と書いている。このような症状は基本的にうつ病と言わねばならない。」とのことらしい。どこからがうつ病でどこからがそうでないのかは専門家をもってしても判断が難しいようだが、希死念慮という単語はこの界隈ではかなり香ばしい文学的表現で、うつ病ノミネート待ったなしということか。

 そうか、世の一般の人々は希死念慮など持っていないのが普通らしい。ではぼんやりと希死念慮があった私は高校生の頃からうつ病だったのだろうか。

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 人間の生きる意味、社会というものの構造とその妥当性、その中で働いていくということについてぼんやりと意識をめぐらせ鬱屈とした気持ちを覚え始めたのは高校生の頃だった。そして「永らえることに大して意味がないなら、さっさと死んで意識を消失させてしまった方が楽なのではないか」と考え始めたのもこの時期だった。

 自身の鬱屈とした気持ちにはっきりと「虚無主義」と名前がついていると知り、希死念慮がはっきりと私の中で立像したのはノーバート・ウィーナーの『人間機械論』という本を読んだ時だった。良くないことに、その頃私は「現代社会そのもの」の構造が嫌いだと感じ始めており、「自身が強く否定している資本主義社会の中で無意味に生き永らえるのなら死にたい。この鬱屈とした気持ちを抱え続けて生きるのはあまりに辛いので、死にたい」と強く思い続けていた。

 だが、そんなこと誰にも打ち明けられない。言ったところで理解されないだろう。その思想をきちんと理解してもらおうと思うと私はまず資本主義と成長主義について語ってから、そうでなければ社会は雇用機会を創出できず失業者にあふれることを前置きしたうえで、人類は必要のない営みをさも意味ありげに続けており、多くの人類はその価値観を疑わずに受け入れていることを相手に同意させてから、その営みが理解できないため社会で働くという行為そのものにどうしても苦痛を感じると説明しなければならない。もし一言で説明するなら「俺は社会不適合者なんだ!」ということになるだろうが、それだと正しく伝わらない。正しく伝わらないなら話したくないが、正しく伝えようとするとおそらく資本主義社会の話が始まった段階でほとんどの人が話を聞くのを辞めてしまうだろう。結果、誰にも話せない。話す気にならない。

 いざ社会人になってみれば思った通りの結末が待ち構えていた。社内説明用の資料の「てにをは」レベルの指摘で盛り上がっている人たち、綺麗なPowerPoint資料でしか進められない仕事、契約書の文言に拘って一生続くメールのやり取り…意味が分からない、意味が分からない!みんなして何を躍起になっているんだ?だれもこの行為に吐き気を覚えないのか!?「仕事ってこういうモノだから」と言って受け入れられるのか!?おかしいのは受け入れられない私の方か!?強く拒否反応を出している私はアダルトチルドレンと揶揄される存在なのか?体裁はなんだ、目的はなんだ、本質はなんだ、無駄ではないか?誰も何も考えてないのか?考えた結果受け入れたのか?そもそも大した疑問なく受け入れたのか?それとも苦しみながら受け入れているのか?教えてくれ、この苦痛が何年も続くことが分かっていてどうして平気でいられる?どうして希死念慮が湧いてこない?どうしてクソ仕事の連続があと30年40年続くことを耐えられる?30歳になれば、35歳になれば、40歳になればいつか受け入れられるのか?

 私は、私は吐き気がする。脂汗をかくし頭が痛くなる。早く死んで楽になりたい。分かっていた結末の中に身を置いて、分かっていた通りの反応が引き起こされた。辛い。とにかく辛い。

成長を求めてコンサルタントという仕事を始めたが、ある月曜日にスーツを着て家を出る段になって足が止まってしまった。時計の針が気が付いたら15分進み、出社に間に合わない時間になっていた。休息が必要だと感じた。そうしてついにメンタルクリニックに行きうつ病と診断された。当たり前だ、こんな抑うつ的な気持ちを抱えて希死念慮たっぷりで表面上は淡々と仕事をして笑っているような状態、鬱以外の何物でもない。

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 「トリンテリックス」、それが私に渡された錠剤の名前だった。比較的副作用の抑えられた最新の抗うつ剤らしい。抑うつ希死念慮といった症状がこの錠剤を毎日飲み続けることで緩和されるかもしれないのである。だが、私のこの感傷は果たして後天的な病によるものなのだろうか。それとも、生まれつきの性格と偏った知識が脳内に巣くっているからなのだろうか。前者とすれば投薬である程度は改善されるだろうが、後者の場合はいくら薬を飲んだところで改善されるものではない。抗うつ剤は性格を改変してくれる薬ではない。

 この小さな錠剤が長らく私を苦しめる希死念慮抑うつ的な感情を軽減してくれるものなのか、全くそうではないのか、目下の私の興味はその点に尽きる。治るなら治したい。もし治らないなら、淀んだ水を溜め込むダムはいつか決壊して、私の魂は大海原にバラバラと運び込まれてしまうだろう。

 君よ、頼みます。私の苦痛を和らげてください。欺瞞でもいいから私をカラッと元気な時のままに留めてください。無駄なことを考えるのを辞めさせてください。楽に、させてください。

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 会社へ向かう足が止まった時、こんなこと本当にあるんだなと思いました。その時に「病院でうつ病の診断書がもらえればしばらく休めるかもしれない。1~2ヵ月休職して、ゆっくり投薬しながら経過を観察し、これからのことを考えよう。そのために診断書をもらおう。」と不純なことを考え、病院に行き、首尾よく診断書を手に入れました。

そして、今後の仕事をどうするか上司と相談をし、とりあえず今週いっぱいはお休みをいただき、来週からその上司が担当している別の案件に入れてもらうことになりました。上司曰く、もともと私と同じ案件で働いていた先輩も軽度のうつ病を抱えながら働いていたらしく、案件が変わって元気にやっているようです(この状況で「調子はどう?」と聞かれれば楽しくやってますとしか答えられないのではないかとも思う。そもそも私の前任者も前々任者もうつ病になってるの、この仕事ヤバくないか。)。

 本当は2ヵ月ほど休職し、投薬しながら症状に変化があるのかを観察したかったのですが、上司はどうも私が休職しない方向に倒したかったと見えます(正式に休職となると社内の備品を一旦返すのが手間だったり、経歴に穴が開き今後の人生で不利になります。)。会社のためなのか私の経歴に穴が開いたり復帰しにくくなったりすることを考慮してなのか分かりませんが、診断書を手にした以上、辛くなったら休職!というカードが手元にあるわけですから、来週からは上司の口車に乗って投薬しながら仕事に復帰しようと思います。のんびりとでもできることをやり続けていた方が精神衛生上良いかもしれない、という考えもあります。事実、有給4日目にして「ゆっくり考える時間を設けたところで何も正解は出ないのでは?」と感じ始めています。

 

結局、私は高校生の頃からずっとうつ病だっただけなのでしょうか。それとも相容れぬこの社会との軋轢の中で涙を流しながら生きていかなければならないのでしょうか。

抑圧の中に生まれて

俺たちは欲しくもないモノを買って、好きでもない連中に気に入られようとしている

-『ファイトクラブタイラー・ダーデン

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 父と母の期待を背負って俺たちは産み落とされる。その期待はやがて友人から、教師から、社会からも背負わされる。

 努力をすることは素晴らしいと教えられる。金を稼ぐ人間は称賛される。課題を解決する人間は尊敬される。期待に応える人間は羨望のまなざしを集める。誰かが決めた価値観を達成するために誰かが作り上げた仕組みの中で皆が「成功と信じられる像」を目指す。そしていつかは価値観を作る側に回ってやろうと躍起になる。馬鹿げたラットレースを抜け出そうとしてラットレースの主催者側になろうとする。それが世の中なのか。

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 なんでもそつなくこなせる子供だった。勉強もスポーツも出来た。父にも母にも周囲の人間にも真っ当な人間、なにかを成し遂げる人間になることを期待されていて、その期待に応え続けてきた、と思う。

 でも俺は成功したいと思ったことも金持ちになりたいと思ったことも名声が欲しいと思ったこともない。欲しいものも無い。高い車、いい時計、ブランド物の装飾品を欲しいと思わない。

 いけそうだったから国立の「いい大学」に行った。先々で有利になりそうだから大学院を出た。働きたいと思わなかったが期待に応えるために「いい会社」に新卒で入社した。潰しがきくことをした方がいいと思ったからIT関連の勉強をして転職をした。収入が高く成長できる環境に身をおくのがトレンドらしいから外資コンサルとかいうステータスシンボルに身を預けた。でも、どれ一つとっても興味ない。強いて言うなら大学での勉強は楽しかったけど、楽しいと思ったはアカデミックなことばかりでプラクティカルなことは一切面白いと思わなかった。

 抑圧してばかりの人生だ。「自分がそうしたいと思ったから」という基準を持ったことがない。社会一般の基準の中で良いものを高位のものを期待されるものを選び続けてきた。そしてそれが自分の選択であるかのように思わせるために自分をだまし続けてきた。どうして欲しくもない金のために、自分の最低限の基準の金以上のために時間を差し出しストレスに晒されなければいけないのかとずっと考えていた。そして、その考えは間違いだ、もっと頑張らなきゃいけない、もっと稼げるようにならなきゃいけない、これは俺自身の選択で俺は自分で決めたことを貫き通さなければいけないと自分を抑圧し続けている。でも、やっぱりそれは長くは続きそうもないことがここに来て、外資コンサルタントという日本社会にいてこれ以上ないステータスの一つを手に入れて分かった。一度開いた眼は閉じない。一度持ち上がった疑問をどこかに閉じ込めて知らんぷりはできない。心臓が早く脈打つことを無視できるほど強くもない。ここまで進んできた道は俺にとってはたぶん間違いだったし、この先に進み続けても道は間違い続けたままで、苦しいままで、疑問に塗れたままで、その先にあるモノは欲しくないもののままなんだ。

 コンサルとしてもっと高い賃金を得るようになって、実績を積んで、独立して、投資して、金持ちになってタワマンにでも住んで身の回りを高級なもので固めていい人と結婚して子供にはなんだか高級な教育を受けさせるぞと思っていたけど、全部嘘だ。そんなものどれもこれも欲しくない。ただ、そうできるだけの能力が自分にあって、ある以上はそこを目指していかなければいけないと自分を抑圧していただけだ。周りの人間にそうやって吹聴していただけだ。自分で口にしてること全部に泥が塗られているみたいだとずっと思ってた。俺の気持ちではない。それは。

 

だからこのレールはもう降りたいんだ。父さん母さんごめんなさい。期待してくれていたよう人生は嫌です。孫の顔を見せられるかも分からないです。不真面目でごめんなさい。天邪鬼で余計なことばかり考えて一生懸命働けない子でごめんなさい。今まで僕の養育に掛けたお金を全部返したらもう知らない人のふりをしてくれませんか?

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 じゃあ何をしたいの?って聞かれても答えられないのが辛いところですね。あんまりないんですよね、そういうの。コンサルも一年くらいは続けると思います(大学の部活も1年続けるって言って半年で辞めてしまったのであまり信ぴょう性がないですね)。でもあっさり辞めると思います。辞めたら、ジムのインストラクターとかトレーナーになろうかと思います。年収は半分くらいになるかもしれないけど、全然暮らしていけるし、ジムは好きだから今までの仕事よりはましな気がします。肉体労働な感じですけど、なんか楽しそうですし。それが好きになれたら、自分でジムを作ってそれの経営がしたいです。誰でも安くで運動できて、みんなが楽しく働けるいつでも冗談を言っていい職場で、飯を食うのだけに十分な金が稼げる、そんなジムを作って、自分が好きになったやつだけ雇って、たまに大学生みたいなお酒の飲み方をしたり、一緒にゲームをしたりしたいです。休日は本を読んだり音楽を聴いたりしたいです。そんなに難しいことじゃないはずなのにね、本当は。

傷つかないと生きていけない

生涯スポーツを始めたいと思って、最近ゴルフを始めた。私は中高とハンドボールをプレイしていたのだが、どう考えても60歳になってハンドボールはできない。だから、ゴルフかテニスをしようと思って、ゴルフを始めた。

 

自転車でゴルフ練習場に向かう際中、自転車の前輪にゴルフバッグが挟まったと思ったら見事に背負い投げされた。背負い投げと違う点があるとすれば、背中から受け身は取れなくて、気が付いたら出来の悪い土下座の態勢になっていたことだろう。何が起こったか脳では理解できなくても体はきちんと最低限の受け身を取ってくれる。今回の最低受け身は土下座。

一番痛い部分、右手の小指の付け根を確認して「皮膚ってこんな風にベロンと剥がれるんだな」と少し感心していたら血が溢れてきた。自分に子供ができたら自転車の前ブレーキを先にかけるんじゃないぞ!ときちんと教えようと思う。昔から肩掛けのカバンがうまく扱えない。何回か試行錯誤しないと正しい掛け方にならない。今回は「イマ、正しい肩掛けになってない気がするな」と思いながらチャリをふらふら漕いでたら盛大にこけたわけだ。

 

「なんか最低な日だな」なんて考えていた。転職して一年が経とうというのに、仕事がなくて毎日暇で、退屈している。仕事がないわけではない。上長が忙しすぎて指示が下りてこない。と思っていたら上長が気合いで仕事を片付けてしまう。私にもっと自主的に動ける能力があればいいが、そうもうまくいかない。そんなこんなで今日も悶々としていて、就業後に「せめてゴルフの練習してジムに行って資格の勉強しよう!」と考えていたら、ずっこけた。今日は帰って全部投げ出して寝てやろうかと一瞬思った。血だらけの手ではゴルフクラブダンベルも握れない。

 

ゴルフクラブダンベルも握れない?そんな訳はない。傷口にバンドエイドして上からテーピングを巻けばいいのだ。手が痛んだってクラブは振れるしダンベルは挙がる。今日は最低だったなんて思いながら一日を終えるくらいなら、血だらけになって「今日は頑張ったな」って思って終わる方がいいに決まってる。ほんの一瞬前までふらふらチャリを漕いでたはずなのに、怪我をして痛い、痛いと思っているうちに何故か気持ちが引き締まる。どろどろに溶けてしまった脳みそがハンマーでガン!と叩かれてすっきりと固形になったかのような衝撃。

 

私はどうやら適度に傷を負わないと、鋭く生きられないらしい。圧倒的不合理。究極に不幸を愛した生き方。最悪だ。でも、それに気持ちよさを感じている自分もいる。ヒロイック、それはある種のナルシズム。構わない。今から資格の勉強をして寝る。小指の付け根がどんどん腫れてきているが、ペンは握れる。

朝に道を聞かば

子曰く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり

論語の一節である。朝にこの世の理を知ることができたのなら、その日の夕方に死んでしまっても構わないという意味で、真理やそれを知ることの大切さを強調した教訓である。

そんなことなら真理など探究しない方がいい。死んでしまっても構わないと思い続けて生きてはいけない。

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 私が人生の意味とか人類存続の意義とかについてぼんやりと考え始めたのは高校生の時だった。特に何のきっかけもなくそういう神秘めいた疑問が頭の中に持ち上がり、それについてぼんやりと考え事をすることがそれなりにあった。ぼんやりとした自殺願望が目覚めたのもそのころだと思う。つまるところ、生きるとか死ぬとかに大して意味がないのであれば、今死ぬのも明日死ぬのも100年後に死ぬのも大差ないはずなのだ。

 この馬鹿げた拗らせが頂点に達したのが大学生の時だった。自分が妄想していた人生とかこの世の無意味さみたいなものが「虚無主義」という名前の思想としてきちんと研究されているではないか。私はすぐにそれについて何冊も本を読み、自分の考えの正しさを確信し、「だったら死にたいな」と考えていた。「死にたいな」というよりは「こんな気持ちを抱えながら何十年も生きていくのはあまりに苦痛だな」という気持ちだった。人間、自分にとって都合のいい(自分を正当化する)情報ばかり仕入れようとするものだ。どうせならもっと前向きな情報収集がしたいところだが、とにかく大学生の時はそんなことをずっと考えていた。

 会社員になるとこのネガティブシンキングはさらに加速した。入った会社というか部署が良くなくて精神的にかなり参っていたのだと思う。会社でしんどい思いをしている自分自身を慰めたり正当化したりするために、資本主義における労働者と資本家の対立、快楽を求め続けることの愚かさ、努力するよう仕向けられていること自体が誰かの作意によるものであること、終わらないランニングマシンに乗せられて走り続ることがいかに間違った生き方なのかを勉強し、また論じていた。つくづく理屈家でイヤな奴だな

とにかく勤め先が嫌で嫌で、すぐにでも辞めたかった。この先どうやって生きていこうかなんて大きなことは簡単には答えを出せないけど、行動を起こせば簡単に変えられる現状だってある。そうして新卒で入った会社を2年で辞めた。大卒者の新卒3年以内の離職率は3割と言われており、3年も我慢が続かん奴の気が知れんなとか思っていたけど、私はあっさり我慢の続かない側に回ったのだった。

 で、今の会社に移ったのが2021年7月である。いささか、いや滅茶苦茶のんびりした部署でなんだか自由にやらせてもらっている。環境が変わって小難しい思想とか哲学について勉強することも減ったし、文章を書いたりすることも減った(ブログが全然更新されないのもそういうことである。)。私が勉強や作文をしていたのもつまるところストレス発散でしかなかったのだろう。人間、そうした抑圧が衝動となって創作活動を行うものなのだと思う。

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 小学校から続いていた問題意識に決着がついたのが大学生、高校・大学で生まれた何某かの疑問とか暗澹たる思想がゆっくり流れていったのが2021年。2022年、ようやく空になって色々なものを詰め込むだけのスペースができたように思う。そろそろ、どうやって生きていくのかを決める段階だろう。実は、今ちょっとした挑戦事をしている。それが終わったらこの忌々しい資本主義と向き合って生きていく覚悟を決めようと思う。言い訳しないで、噛み殺したい。この世界。