苦難、或いは精神疼痛の特効薬

 先日、登山に行った。片道約3時間かけて山に行き、2時間で登山をして3時間かけてまた帰ってくる。  何という贅沢。何という余分。私は開発経済学について学んでいたから、時折、自分の行動や所属する組織での振舞い、自分の国の状況等と開発途上国のそれを比較して考える。貧しい国の人々は、用もないのに山など登らないだろうが、私はなぜ息を切らして、金をかけて登山をするのか。

 「ああ、持ってきた水分が少なかったかもしれない。」「しまった、雨具を忘れた時に限って雨が降るとは。」  汗が流れて、息が上がる。ふくらはぎと太ももがはち切れそうに痛い。なぜ息を切らして、金をかけて登山をするのか。自然にあって、研ぎ澄まされた思考は答えを知っている。“汗を流したい“ “息を切らしたい“ 身体を痛めつけたい“ そして、頂上で吸う空気に達成感を得たい。     だから、自ら進んで苦難を受け入れる。それは、退屈の中に生きられない人間にとっての麻酔。大義のない世界に生まれた者にとっての自己欺瞞

 我を忘れるほどの熱中がいつも続けば、人はもう少し幸せでいられるのかもしれない。少なくとも、人生の意味について考える時間がなければ、人生の意味について考える必要は無くなる。現代人がぼんやりとした不幸に包まれる原因を、私は「余剰」の中に見ている。

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 いくつかの、興味深い本を読んだ。一つの群は「FACTFULNESS」「21世紀の啓蒙」等、もう一群は「パンセ」「幸福論」「暇と退屈の倫理学」「資本主義リアリズム」等。前者は進歩主義による世界の明るいニュースの紹介で、後者は文化的悲観論者達による人間はいかにして不幸でそこから脱するためにはどうすればいいかという議論の本。前者から簡単に紹介しよう。

「FACTFULNESS」から、一つの質問を抜粋する。

世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう? A 約2倍になった B あまり変わっていない C 半分になった 

勿体ぶった書き方なのですぐに分かると思うが、答えはCだ。「FACTFULNES」「21世紀の啓蒙」はこうした前向きなデータの数々を提示し、人々の目を醒ます事を目的として書かれている。どうも人間は悲観的なニュースにばかり敏感になるらしく(そういうものらしい)、これだけ発展した世界にあって、世界はどんどん悪い方向に進んでいると勘違いする傾向にある。戦争や紛争が減り、疫病は須く駆逐され、平均寿命は延びて乳幼児死亡率が下がり、誰にでも人民権が与えられ、民主主義が達成され、世界はますます公平になり、人類全体がより賢くなり、1人に一台スマートフォンという超高性能携帯型端末が与えられる、今という時代はいつでも最先端で、どう見ても歴史的に1番「良い時代」であり続けている。にも関わらず、人は世界が悪くなり続けていると思い込み、エリート層や哲学者は悲観的な展望を述べる。どう考えても、それはおかしい。みんな、この発展し続ける世界を前向きに、理性的に生きていこう!

 では、文化的悲観論者が何を言っているかというと、資本主義や消費社会の進展でどんどん人は不幸になっているというのだ。彼らも世界が改善されているのは知っているが、どうもそれではおさまりがつかないらしい。確かに、日々、会社で働くために電車に乗るおっさん連中が幸せそうに見えたことは一度もない。一度もない。生きるために、飼い主のところへ行って時間と労働力を提供して金をもらう生活が幸せなはずがない。やりたくもない仕事のために電車で鮨詰めにされて、楽しいはずがない。でもこれが資本主義の様態であり、だとすれば人間はどんどん不幸になっている。そもそも、人間は“慣れてしまう”生物である。いくら自身を取り巻く環境が良いものになろうと、慣れてしまえば当たり前である。今さら「スマートフォンをありがたがりなさい!」と言われても閉口してよいものか、笑い飛ばしてよいものか。

 

  結局、人はどんどん幸福になっているのか、どんどん不幸になっているのかについては「見方次第」「感じ方次第」らしい。統計データの上では人類は幸福に“なっていないとおかしい“が、幸せを毎日噛み締めている人間など見かけないあたり、人類は大して幸せになっていないようにも思える。

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  まるで対立する意見が天才たちの著書の中で論じられるわけだから、どちらを信じればよいのかとしばらく考えていました。人が幸せになり続けているのか不幸になり続けているのかについて、理性的な学者たちが全く反対のことを言うが、ホントのところどうなんでしょう。

少なくとも「FACTFULNESS」「21世紀の啓蒙」等の本において科学主義、或いは啓蒙主義的な観点から人類が幸せになっていると論じられているのは、些か乱暴すぎるなと感じた。幸福とは環境ではなく感情なのだから、感じることができないものは決して幸福とは呼べないと思っています。一方、こうした悲観的な意見が世間に蔓延すると退廃的な世界になってしまうので、ポジティブな内容の本が定期的に現れては人を鼓舞する必要があるのですが、にしてもヒドイ。嘘を言われちゃあ困る。みんな幸せを感じられていないとしても、「世界はどんどん進歩しているのだから幸せを感じられないのはおかしなことですよ?」と言われては、自分に嘘をついてでも「ああ、私は幸せだ!」と言わなくてはならないと感じてしまう。とても、乱暴だと思います(こうした精神の作用は認知的不協和と呼びます。)。

 

 登山をしていた時、わざわざリソースを色々割いて苦労をするのは一体どういうことなのかと考えていました。多分、退屈な時間を充実感で埋めてしまいたかったんだと思います。そういった「退屈感」やそれを生み出す「余剰」がなぜ人を不幸にするのか、熱意がそれを癒すのかについてを全面的に書くつもりでしたが、あまりに長くなる気がするのでまたの機会にしようと思います。ちなみに、私は思索に耽って文章を書いているときは幸せです。こういうの好きですからね。こういうので食べていけると良いですね。精神的に。