待ち構えている

 とある映画評論家の話である。端的かつ鋭い批評は彼を高名な映画評論家たらしめるのに十分であった。そんな彼は今日もパリのさびれた映画館で一日を過ごす。我々の目には大々的に宣伝された映画しか目に入らないだけで、世界には私的に制作されたものも含め実に大量の映画が存在しており、彼はそうしたゴミの山も含めて上映される映画のほぼすべてに目を通しているのだ。

 あるとき、彼にこんな質問が投げかけられた。「駄作だと分かっている映画をどうして鑑賞するのか。時間の無駄ではないか。」彼の答えは「私は待ち構えている」というものだったという。

________________________________

 先日、大学時代の先輩と食事に行ってきた。近況を話し合い、仕事のことを話し合う、よくある食事の風景である。悲しい独身社会人のよくある会話の一つとして仕事辞める論争がある。「競争社会の中でいつまでも上を目指して努力する」という営みに早くも疲れてしまった若者がやりがちな会話で、この会話をけしかけて盛り上がる相手というのは大抵現状に"かなり"不満を抱えている。

 悲しい私たちは、当たり前のように仕事を辞めるか否かについて語り始めた。

金融インフラで働いていた私は仕事を辞めるつもりだと話した。こんなことのためにストレスをためて一生を過ごしていくのはごめんだった。資産運用会社で働く先輩はまだ続けるつもりだがいずれは辞めるだろうと話した。彼はもっと人を喜ばせることがしたいと語った。誰でも知っている、この世に不要な仕事なんてものはほとんどない。働いているだけで素晴らしい。でも、もっと直接人を喜ばせたり幸せにするようなことをしたいのだと先輩は言う。それは私にも素晴らしい考えに思えた。だが、そのために何をすればいいのか分からないと彼は言う。私にも分からなかった。ただ、少なくともお金をあっちへこっちへ動かすというのでは人を幸せになどできないのではないかと私は言った。先輩は「その通りだ。その通りなんだけど今はこうすることで世界を観察している。俺は人を喜ばせる"何か"が明らかになるのを待ち構えている。それが明らかになれば動く。」

 映画評論家と同じことを言っている。さすが先輩だと思った。

_________________________________

 もっと単純な性格に生まれたかったという話はどこかでしただろうか。つまり、人生の意味とか生きるという行為についてとか、資本主義や消費社会の在り方についてとか、そういうせせっこましいことについて考えない性格に生まれたかった。だがそうなってしまった以上は、それを心の一部として引きずって生きていかなければならない。

 一体、自分はどういう状態を達成したら満足なのだろうか。どうあればこれがベストだと言い切ることができるのだろうか。どこに行けばいいのだろう、どこにも行かなくてもいいのかな、それに俺は満足するのかな。

 

 天啓は空から降ってきやしない。私は無信教だから。でもそれがいつ見つかったとしてもいいように、待ち構えていなければならない。ぜい肉を落とし、神経を研ぎ澄ませ、その時を待ち構える。それは、最高の状態で迎え入れられなければならないから。

4 am

 寝れねえまま朝の4時を迎える。不眠症とやらだろうかとも考えたが、たぶん疲れてないから寝れないってだけのことなんだろう。さもなければニートをやってて何のストレスもない俺が不眠症になる理由が見つからない。

 諸兄諸姉らにおいては朝の4時に起きることはあるだろうか。いや、私は寝れなかったから起きているだけなのだが、4時はいいものだ。4月と5月に世界が明らかに分かたれているように、朝の4時と5時も明らかに世界は分かたれている。4時にしか流れない空気というものがあるのだ。

 太陽が地面を温める前、東の空が紫色に輝き、世界で一番冷たい風が吹く。大地が穢れを知らなかった頃の、創世記が日毎に繰り返される、4時。

__________________________________________________________________

 余計な本を読むのを辞めると宣言して幾何か、読まねばならぬと義務付けていた本をついに読み終えた俺はパタリと本を読むのを辞めた。読まなくなると読まなくなるで今まで俺は何に時間を使っていたのだろうかという気になってくる。読まねば知れぬままのことが大量にあるのは間違いないのだが、知る必要もないことばかりだった。

 近頃は本を読まなくなっただけではなくニュースも見なくなったしネットもあまり見ないため世間で何が起きているのかよく分かっていない。なんだかそういうことに急に興味がなくなってしまった。いや、もっと前から本当は興味が失せていたのかもしれない。それでも何かと勉強したりニュースにかじりついていたのはこの世界のことをもっと知ろうとか、「善く(良く)生きよう」とか考えていたからに他ならないわけだけど、失業期間、あれこれと本を読んで考え事をするうちにそんな気持ちも失せてしまった。

 もともと、この社会の価値観にはずっと違和感があった。具体的に言うと資本主義の競争社会やそれらが作り出す価値観に違和感があった(私は広告代理店や広告というものが大嫌いだ。)。でも私はその中で勝ち組だった。優秀なのであって決して落伍者ではなかった。だから何となく付き合ってきたけど、そんな含み笑いの優等生をあと60年とか続けるのかなと考えると、急に嫌気がさした。

 嗚呼、どうか仕事が始まって忙しくなったらこんな余計なことを考えなくて済みますように。それか今後一生を社会と切り離された環境で生きていけますように。

対世界衒学的

衒学 (げんがく)

  1. 学を衒(てら)うこと。ある事項事象に関して知識があることを、必要以上に見せびらかすこと又はその物言い。特に内容のない事項について、さも重要であるかのように見せ、さらに発言者自身が重要性を有するように見せる技法の一つ。一般には「」と結合し、形容動詞として用いられる。

 

 どこまで知れば「知った」ということになるのだろうか。どこまで勉強すれば「勉強した」ということになるのだろうか。

 この世の全てが知りたかった。いつしか知らねばならぬとさえ考えるようになった。

________________________________________________________

 フェミニズムについて考えるようになったのは、過去に付き合っていた方の影響だった。自立心が強く、ものをよく考える人で、フェミニストだった。私はその人の主張を聞いて「これは私も勉強せねばなるまい」と感じた。

 男尊女卑とはいうものの、いつから男尊女卑が発生したのだろう?男尊女卑が家父長制に基づいているとしたら、いつから家父長制が発生したのだろう?その考えは現代にも適用されるべきなのか、そうではないのか。家父長制の起源がもし太古の時代、狩猟採集の時代から続いていて、それがオスの方が体が大きく強かったかことが原因としたら、男尊女卑は自然状態ということになるのだろうか?もし男性の方が一般にIQが高く、ヒトにホモ・エコノミクスとしての役割が求められる資本主義社会において高いポジションを占めるのが男性なの当然だ、というマチョイズムが出てきたら、それはどう考える(反論される)べきなのだろう?そもそも、ジェンダー論の中にセックス(生物学的性差)を持ち込むべきだろうか?睾丸を摘出した男性と子宮を摘出した女性のジェンダーが男と女のままなのだとしたら、ジェンダーをセックスが定義するということは不可能であるから、ジェンダー論の中にセックスを持ち込むのは不適切だろうか?だとすると、オスであってもジェンダーとして女が割当てられるという事象が発生するのだろうか?とは言え、女性特有の生理現象やライフイベントを「両性の社会生活の公平さ」の実現のために無視することはできないのではないか...

 ...フェミニズムについて学ばねばならないと考え始めてすぐ、以上のようなことに回答できない限りは、自身の意見を表明し、立場を取るに値しないと思った。発言権がないように感じるのだ。一方で、現実世界ではいつでも問題が発生しまくっていて、厳密な議論なんて誰も興味がないように感じる。インターネット上の論争のなんと不毛なことかと思う反面、必要以上に物事について自己満足的に納得させることにも大して意味はない。ただ、知りたいと感じたし論じられるようになりたかった。

..........................................................................................................

 こういうの、「衒学的」と揶揄されるのだろう。あるいはオタクっぽいと言うのかもしれないし根暗というかもしれない。単純に「キモイ」でもいい。もはや、いつからなのか、なぜなのか分からないが私のあらゆる事象に対しての態度は衒学的になってしまった。必要以上に細かく知ろうとしてしまうし、そうでなければならないと感じている。

 どこかで、終わりにしなければならない。

 もう大学生ではないのだ、社会に出た大人なんだ。いつまでも細かいことに拘ってないで、勉強するにしてももっと実利に基づいたことを勉強したり、自分のこれからに向き合っていくべきなのではないか。資格の勉強とか、もっと実学に時間を割いた方がいいのではないか?

..........................................................................................................

 狭い家の一角に本が積んである。まだ読んでいない本と、すでに読んだが読み直すべきだろうと整理された本たちである。そしていくつかの購入予定の本のリストがある。追加で読むべきだろうと判断したものと、私を形作った本で、今、手元にない読み直したい本たちのリストである。

 こいつらを片付けたら、一度、本を買うのをやめにしようと思う。この世界の全てなど知りっこないのだ。広げた風呂敷は畳まれなければならない。一度、今までの俺の風呂敷を畳んで、区切りを付けようと思う。

 そうして次は、何をすればいいのだろう。

________________________________________________________

 「ジェンダー論の中にセックスを持ち込むべきなのか?」という疑問が湧いたとき、とある本を見つけたので読んでいました。そうすると、どうも「女」とは何かという定義から明らかにしないといけないということらしく、少なくともボーヴォワールの『第二の性』という本を読まねばならないことが分かりました。一冊本を読んで、2冊、3冊と追加で読まなければならないとしたら、一生かけても読書が終わらないことになってしまいます。別にそれは構わないのですが、そんなことをして時間を過ごして、この世界に対して懐疑的に詳しくなっていった先に自分は何を得ているのだろうかと考えたとき、少し寂しくなったのです。おそらく、何も得られないでしょう。

 もう少し、この世界そのものを素直に受け入れて単純に生きてたいな、とか、自身と世界の関りを増やすための時間の使いかたをしたいな、とか、結婚したいな、とかそんな感じです。

 

 以前、友人と話していた時に「いやぁ、働きだしたとはいえ、大学の時と気持の面で何ら変わりないのよね。社会人になったらものの考え方とかガラッと変わるんかと思ってたわ」と話をしていて、「ああ、自分の気持ちに変化がないのは自分がいつまでも同じステージに踏みとどまっているからなんだろうな」と気づかされました。その一つがこの読書です。この手の時間を持て余す大学生のような勉強を辞めてしまうのが自分にとって良いことなのか分かりませんが、少しでも前進できるといいなと、思っています。必要だと感じるようになれば、また再開すればいいのです。

目覚ましのならない火曜日

4/13(火) 今日は目覚ましが鳴らない。そういう手はずになっている。私はそれを承知していて、たっぷり9時間寝て起きた。朝の9時、もう会社には間に合わない。

明日も明後日も、来週以降も、一か月後も、きっと目覚ましはならない。だから会社には間に合わないけど、問題はない。もう俺の最終出社は完了していて、間に合う必要などないのだから。

 

..................................................................................................................

 何も知らないまま社会人になり、満足な研修もないまま仕事が始まり、見よう見まねで資料を作り、気が付いたら打合せで主導権を握っていたわけだから、頑張っていたと思う。ただ、その状況が既に気に食わなかった。「あいつは放っといてもそれなりにやってくれるから、任せちゃおう」というのは信頼が厚いといえばそうだが、此方としては「使い潰されてる」といった気持ちが強かった。その努力の先に何か得るものがあればまだ頑張ろうと思えたかもしれないが、特に得るものもない。そもそも、入社して2年そこらでにこなせるようになる業務に得るものなんて有るはずがない。耐えていれば高い給料にありつけるのは確かだが、そんなものに縋っていたいわけではない。

 思い返せば苦しい2年間だった気がする。正直、精神的にはかなり摩耗していた。得るものの無さ、変わり映えの無さ、面白味のない仕事、付き合ってられない社内政治、非合理な選択と決断。それらの不満が「自分がもっと頑張らないと」という責任感や「環境に文句を言う前に自分が変わらないと」という克己心と対立して苦しかった。結果的には環境そのものを移すことを選択したわけだが。

..................................................................................................................

 堆積する仕事があって、それをどう捌かなければならないのか、捌いたうえでどう資料を作って、どう報告して、どう展開していけばいいのか。前に進むための手はずが頭の中に描けていて、それをするだけの能力が自分にはある。あとは手を動かすだけなのに、一つも手が動かない。やる気が起きなくてできなかった。

 生きていてそんな風に感じたことは一度もなかったので自分でも困惑した。課題があれば真っ先に取り組むし、期限やスケジュールとは関係なしに作業をガリガリ進めるタイプの自分が、目の前の仕事に対して「やる気が起きない」と。

 社会人になって俺は怠け者になってしまったのかと悲しくなれど、手は動かなかった。何も考えずに全部引き受ければそんなことに悲しまずに済むと分かっていても出来なかった。自分のこと鬱やらの精神病の類だとは微塵も考えていないが、彼らの気持ちは少しだけ分かった気がする。「分かっていても出来ない」というのはこんなにも辛いことなのだ。

 幸い、自分の場合はその原因がはっきりしていたのでそれを取り除きさえすればよかった。もはや、今の仕事は続けられない。こんなことを40年も続けていたら、それこそどこかで鬱になってしまう。会社の成り立ち、その存在意義、提供するサービスの内容とその詳細設計、そして仕事内容。どれも好きだった。それ以上に会社の雰囲気と人、風通しの悪さと閉塞感、未来の無さに耐えられなかった。

 最終出社のその日、特に何の感慨もなかった。もう来なくていいのだと思うと嬉しかったし、自分を惜しむ声は心に響かなかったし、早く帰りたかった。それが全てなんだ、ちょっとでも名残惜しい気持ちがあればもう少し続けていたかもしれないけど、そんなものこれっぽっちも無かった。

 ようやく、温いプールから上がることができる。足場の悪さと身を切る風が、今は心地いい。

_______________________________________________________________

 会社を辞めると宣言してから最終出社まで4営業日の出来事でした。誰に引き留められるでもなく、案外スッと辞められるものなのですね。

 会社を辞めようと構想を練っているときは最適戦略は何かと考えていてたのですが、いざ実行の段になると、それが会社への裏切り行為、背信的な行動のような気がして思い悩むことがありました。こんな気持ち前にもあったな、大学の部活を辞めた時です。

 私にとって何かを辞める経験はこれで2回目です。あの時はもっと勉強を頑張りたいと言って辞めました。今度はもっと技術を磨いて独立したいと言って辞めます。今となっては、部活を辞めたのがいい選択だったのかは分からないのですが、勉強に打ち込んで成果を出すことはできました。だから今度も、自分の選択を信じて目標の実現のために頑張りたいという気持ちが強いです。

 不思議ですね。ずっと今の環境に甘えていれば、いちいち悩まなくていいのに。誰かを、何かを裏切っているなんて感じることもなく、日常を守れたのに。でも、そっちの方がずっと面白いって思ってしまうのです。無茶苦茶な人生の方が、面白いと思ってしまう。会社を辞めるなんて、本当は何でもないことなんです。俺が路頭に迷ったら、誰か泊めてください。

 

 最後に、私の父の話をしましょう。この前、少しだけ昔話を聞きました。

「俺が入社2年目の頃、海外赴任中にな、親会社の人間に『君たちが仕事をできるのは私たちのおかげなんだから、黙って言うことを聞いてればいいんだ』なんて言われてな。『お前らがデカい顔できんのは俺らが頑張ってるからなんですよ、発言を撤回してください』って言い返したんだ。そしたら明日から来なくていいって言われてな、言われた通り日本に帰ってきたんだよ。ほんで本社の上司に『いいから謝りなさい、今なら何とかなるから』って諭されて、『謝るくらいなら辞めます』で、会社を辞めたのよ。ま、すぐに転職先見つけたけどな」

苦難、或いは精神疼痛の特効薬

 先日、登山に行った。片道約3時間かけて山に行き、2時間で登山をして3時間かけてまた帰ってくる。  何という贅沢。何という余分。私は開発経済学について学んでいたから、時折、自分の行動や所属する組織での振舞い、自分の国の状況等と開発途上国のそれを比較して考える。貧しい国の人々は、用もないのに山など登らないだろうが、私はなぜ息を切らして、金をかけて登山をするのか。

 「ああ、持ってきた水分が少なかったかもしれない。」「しまった、雨具を忘れた時に限って雨が降るとは。」  汗が流れて、息が上がる。ふくらはぎと太ももがはち切れそうに痛い。なぜ息を切らして、金をかけて登山をするのか。自然にあって、研ぎ澄まされた思考は答えを知っている。“汗を流したい“ “息を切らしたい“ 身体を痛めつけたい“ そして、頂上で吸う空気に達成感を得たい。     だから、自ら進んで苦難を受け入れる。それは、退屈の中に生きられない人間にとっての麻酔。大義のない世界に生まれた者にとっての自己欺瞞

 我を忘れるほどの熱中がいつも続けば、人はもう少し幸せでいられるのかもしれない。少なくとも、人生の意味について考える時間がなければ、人生の意味について考える必要は無くなる。現代人がぼんやりとした不幸に包まれる原因を、私は「余剰」の中に見ている。

---------------------------

 いくつかの、興味深い本を読んだ。一つの群は「FACTFULNESS」「21世紀の啓蒙」等、もう一群は「パンセ」「幸福論」「暇と退屈の倫理学」「資本主義リアリズム」等。前者は進歩主義による世界の明るいニュースの紹介で、後者は文化的悲観論者達による人間はいかにして不幸でそこから脱するためにはどうすればいいかという議論の本。前者から簡単に紹介しよう。

「FACTFULNESS」から、一つの質問を抜粋する。

世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう? A 約2倍になった B あまり変わっていない C 半分になった 

勿体ぶった書き方なのですぐに分かると思うが、答えはCだ。「FACTFULNES」「21世紀の啓蒙」はこうした前向きなデータの数々を提示し、人々の目を醒ます事を目的として書かれている。どうも人間は悲観的なニュースにばかり敏感になるらしく(そういうものらしい)、これだけ発展した世界にあって、世界はどんどん悪い方向に進んでいると勘違いする傾向にある。戦争や紛争が減り、疫病は須く駆逐され、平均寿命は延びて乳幼児死亡率が下がり、誰にでも人民権が与えられ、民主主義が達成され、世界はますます公平になり、人類全体がより賢くなり、1人に一台スマートフォンという超高性能携帯型端末が与えられる、今という時代はいつでも最先端で、どう見ても歴史的に1番「良い時代」であり続けている。にも関わらず、人は世界が悪くなり続けていると思い込み、エリート層や哲学者は悲観的な展望を述べる。どう考えても、それはおかしい。みんな、この発展し続ける世界を前向きに、理性的に生きていこう!

 では、文化的悲観論者が何を言っているかというと、資本主義や消費社会の進展でどんどん人は不幸になっているというのだ。彼らも世界が改善されているのは知っているが、どうもそれではおさまりがつかないらしい。確かに、日々、会社で働くために電車に乗るおっさん連中が幸せそうに見えたことは一度もない。一度もない。生きるために、飼い主のところへ行って時間と労働力を提供して金をもらう生活が幸せなはずがない。やりたくもない仕事のために電車で鮨詰めにされて、楽しいはずがない。でもこれが資本主義の様態であり、だとすれば人間はどんどん不幸になっている。そもそも、人間は“慣れてしまう”生物である。いくら自身を取り巻く環境が良いものになろうと、慣れてしまえば当たり前である。今さら「スマートフォンをありがたがりなさい!」と言われても閉口してよいものか、笑い飛ばしてよいものか。

 

  結局、人はどんどん幸福になっているのか、どんどん不幸になっているのかについては「見方次第」「感じ方次第」らしい。統計データの上では人類は幸福に“なっていないとおかしい“が、幸せを毎日噛み締めている人間など見かけないあたり、人類は大して幸せになっていないようにも思える。

--------------------------

  まるで対立する意見が天才たちの著書の中で論じられるわけだから、どちらを信じればよいのかとしばらく考えていました。人が幸せになり続けているのか不幸になり続けているのかについて、理性的な学者たちが全く反対のことを言うが、ホントのところどうなんでしょう。

少なくとも「FACTFULNESS」「21世紀の啓蒙」等の本において科学主義、或いは啓蒙主義的な観点から人類が幸せになっていると論じられているのは、些か乱暴すぎるなと感じた。幸福とは環境ではなく感情なのだから、感じることができないものは決して幸福とは呼べないと思っています。一方、こうした悲観的な意見が世間に蔓延すると退廃的な世界になってしまうので、ポジティブな内容の本が定期的に現れては人を鼓舞する必要があるのですが、にしてもヒドイ。嘘を言われちゃあ困る。みんな幸せを感じられていないとしても、「世界はどんどん進歩しているのだから幸せを感じられないのはおかしなことですよ?」と言われては、自分に嘘をついてでも「ああ、私は幸せだ!」と言わなくてはならないと感じてしまう。とても、乱暴だと思います(こうした精神の作用は認知的不協和と呼びます。)。

 

 登山をしていた時、わざわざリソースを色々割いて苦労をするのは一体どういうことなのかと考えていました。多分、退屈な時間を充実感で埋めてしまいたかったんだと思います。そういった「退屈感」やそれを生み出す「余剰」がなぜ人を不幸にするのか、熱意がそれを癒すのかについてを全面的に書くつもりでしたが、あまりに長くなる気がするのでまたの機会にしようと思います。ちなみに、私は思索に耽って文章を書いているときは幸せです。こういうの好きですからね。こういうので食べていけると良いですね。精神的に。

所在なき今日と明日の間で

半裸で鏡の前に立つ。よく鍛えられ引き締まった肉体は、それでいて機能美を兼ね備えている。決して見せかけではない、本物の努力の証がそこに映っていたが、その肉体に乗っかった顔面は、どこか自信なさげにも見えた。

__________________

 今や街ゆく人々も"マイプロテイン"と"be legend"のどちらが優れているか議論できる時代になった。プロテインメーカーの優劣まで議論できないにしても、なんでもない人達もジムに行く時代になった。私がジムに行き始めたのはおよそ6年前だが、その当時は「なんでジム行ってんの?」とか「何を目指してるの?笑」とか言われまくっていたので、良い時代になったなと思う。

 6年もジムに行くとそれなりの肉体になる。私はビルダーではないし、ジムに行く理由は単純に鍛錬を生活に取り入れるためだから、自分の肉体が美しくなろうが筋肉ダルマになろうが、自信が付くわけでも、前向きになるわけでも攻撃的になるわけでもなかった。目的もない、目標もない、ただの営み。なんだか自分の人生みたいだと思った。まだ、女とセックスするために鍛えてると公言する人間の方が輝いているのかもしれない。

...............................................................

 ここのところ、いくつかの哲学書を読んでいた。國分功一郎に始まりパスカルラッセル、ハイデッガー。別にうつ病になったとかではなく、単純に人間が生きていくことの理由に自分の中で整理を付けるため、いくつかの哲学者の考えを知りたいと思ったから読んだ。結局どいつもこいつも、人間は退屈の中にそれっぽい理由を見つけて、その後付けの理由のために邁進して生きてゆけという結論を持ち出すだけで、新しい発見はなかった。強いていうなら、少なくとも400年ほど前から既に人類は自分たちが生きているワケについて疑問を覚えていたことが分かった。

 分かるだろうか?我々は「勝手に生きろ。好きに生きろ。」と言われているのだ。そんなことで良かったなら小学生くらいの時にはっきり言っておいてくれよ。「君らはこれからの時代、勝手に生きろ。好きに生きろ。」と。何か大義やら理想のために人間が生きているかのような、ロマン主義のような価値観を醸成しても現代人は不幸になるばかりではないのか。

  まあ、そんなこと今を生きる我々の世代にしか共有されない感情な訳だから、誰かに教えてもらうというのも無理な話だろう。ましてや学校で教えてもらうことを期待する内容ではない。戦争を肯定する気など微塵もないが、戦前戦後でインターネット等の誰でも閲覧できる記録のプールがなければ、お国のため、勝利のため、復興のためにとどこかから与えられた価値観の中で無批判に、そして懸命に生きていくことも可能だったかもしれないが、今は別にそんな時代でもない*1。 価値観すら、自分で掴み取らねばならないのか。

__________________

  じゃあ何をすれば良いだろうかと悶々と考えていたが、特にやりたいことはない。「好きにしろ」と言われて思いつく仕事がない。

 では、どう生きていたいだろうか?そういえば今まで仕事ベースにしか考えたことがなかったが、ライフスタイルから考えてみてはどうか。少なくとも、東京住みはもうイヤだ。なぜ物価が高くて人が多い土地に縛り付けられなければならないのだろうか。東京の最先端の流行にも夜遊びにも興味ない。東京は出会いが多いかと思えば人が多いだけだし、本当に知り合いたい人となら最早、対面で知り合う必要もなくなりつつある。というかタイとかの物価の安いとこでタワマンとかに住みたい。私、高い所好きなのよね。

 会社に雇われるのもヤメにしたい。組織でしか達成できない仕事・価値の提供があることは理解できるが、社内政治に責任の押し付け合い、上席への説明のために割かれる時間、誤謬なく、そのうえ組織の不利にならない文書の作成、いわゆるジェネラリストとしての仕事におそらく私は耐えられない。自分の雇主は自分がいいし、仕事内容は専門的で職人的な方が好ましい。

 だとすると、ある程度場所を選ばずに働けて、なおかつ個人事業主として活動するというのが自分の望ましい生き方を達成するための条件となる。自分が今から本気出してそういう道を模索するとしたら、時勢を考えるとプログラミングを勉強してどうにか独立するというのが1番実現の可能性が高いような気がする。

 と、いうことでSEを目指すことにした。当面は42Tokyoという無料のプログラミングスクール*2に入学することを目標に活動しようと思う。会社は…まあ1、2年の間に辞めようと思う。父母には反対されるというか心配かけるだろうし、友人にも変な目で見られることになるかもしれないが、最早どうでもいい。もう25年間も優等生をやってきたし、十分だろう。どうせ所在なきこの世界、好きにやってみたくなった。生きていくだけなら別に乞食でもホームレスでもいいし、ここらで不確実性を取り入れてみるのもいいだろう。

*1:この点は三島由紀夫がそれっぽいことを言っている。彼は愛国主義者だから極端ではあるが、現代人の抱える退屈感をよく捉えていると思う。"https://www.nicovideo.jp/watch/sm18434718"

*2:https://42tokyo.jp/

何処へでもお行きなさい

金魚にプールは広すぎる。鯨に湖では狭すぎる。私には、レーンで区切られたプールしか泳げない。

.......................................................................

  高校から大学へ上がった瞬間、酷く困惑した覚えがある。何をするのが正解なのかが、まるで分からなかった。勉強か?部活か?サークルか?ボランティアか?

  何をしても良いとはなんだ、何をすれば良いのだ?悩んだ末、私は体育会の部活に入った。怠惰な活動に心を売ってフニャフニャ笑ってクッソくだらない人間関係に悩むくらいなら、せめて打込める物の方が魅力的だった。そして半年で辞めた。「大学に部活をしに来たのか」という自問に答えられなかった。そもそも、学ぶべき分野があって大学に来たのだから、それを学べば良い筈だったのに、周りにそんな選択肢を選ぶ人間が居なかったから、それすら正しいのか判然としなかったのだ。

—————————————————————

  孤独な大学生活だった。起きて、授業を受け、図書館に行き、食堂で飯を食い、授業を受け、食堂で飯を食い、図書館に行き、ジムに行って、寝る。当時の私を修行僧と揶揄したヤツがいたが、言い得て妙だ。

  それだけは本当にやめてほしかったが、「何が楽しいの?」って聞いてくるやつもそれなりに存在した。人が目的に向かって邁進しているのに、邪魔をするなよ。楽しくはねえよ。せめて、自分の中では正しい道を歩んでいると信じているのに、簡単に否定するなよ。もっと熱をこめて自分の理想を周りに語っていればまた違っていたかもしれないが、愚かな私は孤独を選んだ。

—————————————————————

  ある時期、私の中にあった勉強の目的は霧散してしまった。義務感と幼少期に植えつけられた呪いだけが私の原動力だったのに、義務感は猜疑心と成り果て、呪いだけが心に巣食った。気が付いたらまた、大きな海の中で道標を失っていた。

  大学に入学した時と一緒だ。結局わたしは「何がしたいか」ではなく「何をしなければならないか」でしか考えられないのだ。ずっと悩んでいたが、大学に在学していた間は勉強という行為が私の義務論と呪いを癒し続けていた。だから、何がしたいのかという問題は先送りにし続けていた。それが、社会人になった今になって、私を苦しめている。私は、何をしたいのだろう。

—————————————————————

  大洋の中にいて、私は、私を程良く癒す義務を探している。私が私でいなければならない理由を探している。なんと虚しい事だろうか。