【その無邪気さに耐えられない】 2019/10/26 Sat.

無邪気に笑う人

無邪気に怒る人

 

無邪気に奪うもの

無邪気さ故に奪われるもの

 

無邪気に回る歯車

無邪気に続く社会

無邪気に流れる時間

 

罪なく踊る月と地球

意味なく爆発する太陽

 

やがて来る宇宙の終わりに、なぜ私達は真剣でいなければならないのだろう

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 厳密な…良くも悪くも、厳密な社会学者ほど議論を旧石器時代から始める。

事は簡単で、科学世紀の今を、狩猟採集、農耕牧畜と資本主義の発生、大航海時代、戦争の時代と順序立てたうえで説明したいのだ。

直線であれ循環であれ、時の流れとは連続である故に、出発点から過程を正さねば「明らかにした」とは言えない。

 私はこの傾向が好きだし、こういう類の議論でなければ耳を貸す気にならない。今起こっていることだけを滔々と述べられても納得できない。

 

 過去を引き伸ばして議論することを良しとする一方、未来の発散を視野に入れて議論することは、そうせねばならないという呪いに苛まれながらも、出来ることなら避けたいと考えていた。破滅的だからだ。

永遠の先を見据えるということは、努力も才能も、科学も非科学も、生物も非生物も、やがて塵になることを受け入れるということだ。どんなに悲しいことだろうか。

 私は努めて今と、此処と、自分だけを見つめて、刹那的に生きようと腹に決めたが、何度同じ誓いを立てても顔を上げれば終焉が手をこまねいている事実からは逃げられず、「意味の無さ」に思いを馳せた。

 「無意味」という呪詛を超越したいと願いこそすれ、今日の愛情と、感謝と、悲哀と、憤怒に一喜一憂するほど単純にもなれなかった。

 

遊び人にも賢人にもなれぬ、哀れな鳥よ。空の青さも広さも知っているのに、空に果てのあることが頭から離れない。二度と無邪気に舞うことはない、哀れな鳥よ。

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(2020/04/19 Sun. 追記)

iPhoneのメモ帳に残ってたものを引っ張ってきました。よほど疲れていたか、酒に酔っていたか、自分に酔っていたか、あるいはその全てで書いたのでしょう。前段の純ポエムと後段の散文ポエムの二段構えですね。

ここで言う学者とはアンガス・ディートン、ジャレド・ダイアモンド、グレゴリー・クラークのことでしょう。それぞれ『大脱出』、『銃、病原菌、鉄』、『援助よさらば(A Farewell to Alms)』の著者です。

 

この文、一方では明るい内容です。私が思うに、みんな真剣に生きすぎです。いつか死ぬわけだし、長い目で見たら宇宙もいつか爆発かなんか(?)するだろうから好きにすりゃあいいんです。一方では暗い内容です。聡明になろうとすればするほど、多く悲しまねばならないからです。物事に終わりがあるということを、自らの心のうちに明らしめ、自由になろうとする頃には、物事の終わりに気付いています。だから、諦観的に自由になることは明るく、暗いことだと思います。

 

 私が宇宙の終わりを考えるようになったのは大学3年生の時にノーバート・ウィーナーの『人間機械論』を読んだ時でしたが、丁度その時、私は自らの進路に疑問を持ち始めていました。その疑問は修士論文にぶつけられることになるのですが、悲しいもので後ろ向きな疑問と虚無主義ってすーぐ仲良くなるんです。タイミング悪く私は虚無主義的なものの考え方をするようになりました。

それから、2年くらいが経った頃、いい加減、虚無主義とうまく折り合いを付けようと思って中島義道の『明るいニヒリズム』という本を読みました*1。酷い本でした。『明るいニヒリズム』の「明るい」とは「真の意味で」、という意図だったらしく、この本は「真のニヒリズム」とやらについて説いていました。詳細は覚えていませんが、過去も未来も存在せず、今という瞬間があり、したがって死後というものは存在せず、死が全ての終着で、それを受け入れることで心穏やかになれるという内容だったと思います。ならば今すぐ死んでしまえよ、こんな本書いてないで、と、私は思いました。そこまで悟っておいて何故、自ら最後を受け入れないのかが本当に理解できなかった。

ここから急に脳筋な話になるのですが、このニヒリズムの内包する不思議な矛盾についての回答は、私が本気でランニングをして息絶え絶えになっていた瞬間に稲妻のように降りてきました*2。人には捨てられないものが、あるに違いない。死が、終わりが救いだと気付いているのに、未練があって、執着があって死ぬわけにはいかない。そんなもの、もはや虚無主義とは呼べません。その執着の中に生きる意味を見出しているのですから。

嘘のような話ですが、2年間、いや、もしかするとそれよりもっと前から私の中にあったかもしれない虚無主義はその瞬間に稲妻に打たれ霧散しました。強いて言うなら、虚無主義こそ無意味でしょうし、真の意味で虚無主義を提唱する人間はこの世に一人も存在しないでしょう。真にそれを悟ったのなら、死んでいるべきだからです。あとの虚無主義は言い訳だと思います。

 

 で!ぐるっと一周して結局「好きにすりゃあええんや!」ってとこに戻ってくるわけですね。賢人がもし、悟りを開き、諦観を上手に説くことができる存在なのだとすれば、前向きで開かれた欲望を追いかける愚者の方がよほどましだと思います*3

しかし、目の前のことに一生懸命なのが俺の答えだ!という小学生並みの答えなのに、何故こんなにも迷わねばならなかったのかと、今でもよく考えます。

*1:虚無主義には「弱い虚無主義」と「強い虚無主義」と呼ばれるものがあります。前者はこの世のすべてを無為と断じ流されるように生きるもので、後者はこの世が泡沫の仮象だと認めつつも強い意志を持って生きていくスタンスのことです。私は虚無主義に陥りながらもそこから脱したかったので、この本が「強い虚無主義とはいかに素晴らしいものかいかに「」を説いてくれることに期待していたのですね。

*2:あるいは自分の心の中にあった回答を彫刻刀で掘り出したと言った方が良いかもしれません。トレーニングとは時に、それほどまでに心の無駄を落とすものです

*3:私は正義感が強いので悪い欲望を持った愚者は悪いと思います。善悪の話は長くなるから省きます。